嫌いでもいい
愛せない人がいる。祈っても祈っても、
どんなに好きになろうとしてみても、
嫌いでしかない。そんな自分も赦せない。
そのような困難さを覚えておられる兄弟姉妹へ。
嫌いな人のことは「好きではない。」でいいと思います。
愛することと、好きになるとは全く違うものだからです。
神様は無条件に人を愛されますが、
無条件に「好き」とは言われていません。
「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。」
箴言16:5
大切なのは、「好き」か「嫌い」かではなく、
感情的にどう思うかでもありません。
イエス様も偽善のパリサイ人のことを「好き」とは言われていません。
「好きになろう。」ともしていません。
しかし、彼らを含む全ての人の罪を背負われ、身代りとなり、十字架で死なれました。
嫌いな人を赦し、親切にすることも、決して容易なことではありませんが、あなたのうちにある愛(主イエス)のいのちは、必ず愛の歩みへと導かれます。
必ず、です。
「あの人を好きにはなれません。けれども、愛することを選びます。その人の悪を私の心に留めません。私はあの人が嫌いです。けれども、あの人が救われるようにとりなすことを選びます。あなたが私を含め、すべての人にそうされたように。」
どうか私達のうちに愛の実がまたひとつ結実し、
あの嫌いな人を、いつの日か嫌いでなくなり、
主と共に人々を愛することが、私達の喜びとなっていきますように。
「あなたがたのうちに良い働きを始められたか方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 ピリピ人への手紙1:6
「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」 ピリピ人への手紙2:13~14
「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、、。」
ピリピ人への手紙1:9
「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたのうえにありますように。」 ピリピ人への手紙1:1