心と種
心という土壌にみことばの種が蒔かれます。
人の心に蒔かれた マタイ13:19
種は神のことばです ルカ8:11
この種から出た芽が実を結ぶためには、化学肥料(人間の知恵、考え、力など)は効果がありません。それらはむしろ土壌を痩せさせてしまいます。
自然の力(神様の力)に身をゆだねた、熟成された土壌にこそ根は強くはっていきます。
この木には農薬という特効薬(これもまた、人の考え、力)も効果はありません。時に虫に食われ、病気もし、痛みを経験します。しかし、それらを通してこそ、豊かな実を結ぶ強い幹、風にも虫にも負けない枝、青々とした葉へと成長していきます。
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです ルカ8:15
大切なことは私たちの視点です。
正しい、良い心で、、
実を結ぶことが目的ではなく、種にあるいのちこそ私たちが見つめ、求めるべきもの。
「自分」ではなく、「神様」の目的と栄光だけが現されることこそ求めるべきものです。
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。 ピリピ1:11
時間はかかります。暗く、先が見えない時もあります。けれども、私たちのうちに蒔かれた種こそ光です。
私たちの主イエスです。
この光に目を留め、すでに種がまかれたことに感謝しましょう。
どうか、種を蒔いてくださった主と、うちにおられる主イエスが私たちを支え、力を与えてくださいますように。
主の平安が豊かにありますように。
ことばは神であった ヨハネ1:1
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった ヨハネ1:4
心に留めるもの
聖書は、私たちが心に留めるべきものと、
そうではないものを教えます。
現代は、莫大な情報、刺激、物事が溢れ、
簡単にそれらに触れることの出来る社会です。
それらの中には、私達を神様の恵みから遠ざけるものが多くあります。
私が心に留めるべきものは何でしょうか。
罪と死の束縛から私を救い出し
私の内に住んでいてくださる主イエス様。
この方をしっかりと心に留め、
この新しい年をともに生きたいと願います。
「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、
すべて正しいこと、すべて清いこと、
すべて愛すべきこと、
すべて評判の良いことに、
また、何か徳とされることや
称賛に値することがあれば、
そにようなことに心を留めなさい。」
ピリピ人への手紙4:8
「愛は、、、人がした悪を心に留めず、、、。」
コリント人への手紙Ⅰ 13:5
嫌いでもいい
愛せない人がいる。祈っても祈っても、
どんなに好きになろうとしてみても、
嫌いでしかない。そんな自分も赦せない。
そのような困難さを覚えておられる兄弟姉妹へ。
嫌いな人のことは「好きではない。」でいいと思います。
愛することと、好きになるとは全く違うものだからです。
神様は無条件に人を愛されますが、
無条件に「好き」とは言われていません。
「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。」
箴言16:5
大切なのは、「好き」か「嫌い」かではなく、
感情的にどう思うかでもありません。
イエス様も偽善のパリサイ人のことを「好き」とは言われていません。
「好きになろう。」ともしていません。
しかし、彼らを含む全ての人の罪を背負われ、身代りとなり、十字架で死なれました。
嫌いな人を赦し、親切にすることも、決して容易なことではありませんが、あなたのうちにある愛(主イエス)のいのちは、必ず愛の歩みへと導かれます。
必ず、です。
「あの人を好きにはなれません。けれども、愛することを選びます。その人の悪を私の心に留めません。私はあの人が嫌いです。けれども、あの人が救われるようにとりなすことを選びます。あなたが私を含め、すべての人にそうされたように。」
どうか私達のうちに愛の実がまたひとつ結実し、
あの嫌いな人を、いつの日か嫌いでなくなり、
主と共に人々を愛することが、私達の喜びとなっていきますように。
「あなたがたのうちに良い働きを始められたか方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 ピリピ人への手紙1:6
「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」 ピリピ人への手紙2:13~14
「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、、。」
ピリピ人への手紙1:9
「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたのうえにありますように。」 ピリピ人への手紙1:1
さばくためではなく
「あぁ、またさばいてしまった。」
そう悔いることができるのは幸いなことです。
自身の意志でさばく時、主の光を見失い、また、人から自分を遠ざけることになります。
イエス様は勝手にさばくことはなさらず、御父から聞いた通りでしかさばかれませんでした。
「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いた通りにさばきます。」 ヨハネの福音書5章30節
むしろ、私達の身代りとして神様からのさばきをお受けになりました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネの福音書3章16~17節
この方に現された神様の愛とそのいのちが、信じる者のうちに与えられているのです。
すぐに変わることはありませんが、失望せずに、日々悔い改めながら、このいのちから目を離さないでいよう。
さばかずに愛するという、その歩みにある喜びと栄光を、もっと深く知りたいと願います。
いい人だからではなく
イエス様を深く愛することができるのは
周囲の人を心から愛することができるのは
その人が「いい人だから」ではありません。
自身の心の汚さを知り、無力だと人の前で認め、自己に絶望し、涙を流し、うなだれる。
このような自分をイエス様は私を愛し、赦し、罪から解放して下さる。
この事実を信じ、イエス様の足元に近寄った時に
その時に、イエス様への愛と、主が愛される人々への愛が深まるのではないでしょうか。
「、、罪深い女がいて、、イエスの足元に近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけし、香油を塗った。」ルカの福音書7章37節(新改訳2017)
「いま彼女が示した大いなる愛は、彼女の多くの罪がすべて赦されたということの、何よりの証拠なのだ。」ルカの福音書7章47節前半(柳生訳*)
*柳生直行 1920~1986 キリスト教学者 CSルイス、ウィリアムバークレー等の著書を翻訳
土の器にあるいのち
私達には力はなく、土の器に過ぎないと知り、内に頂いているいのち(イエス様)こそが私達のすべてだと理解しても、
なお、器の状態や見た目を、自身や自分達の力で整えたり、飾ろうとしてしまいます。
もしそのようにするなら、内にあるいのちが見えなくなってしまいます。自分だけでなく、周囲の未信者にも、その輝きは見えなくなってしまいます。
いのちを頂いた器は、見た目は土の器ではあるものの、以前の器とはまったく違うものです。
なぜならその内には、揺るがない平安、愛による喜び、そして聖さそのものであるいのち(イエス様)がとどまっており、
そのいのちにあって生きることができるからです。
周囲や見た目に惑わされずに、ただそのいのちに、しっかりと耳を傾け、繋がっていたいと願います。
「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。」コリント人への手紙第二4章7節
「、、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。」コリント人への手紙第二4章12節
重荷を下ろすとき
人はどうしても目に見える物事に頼りやすいものです。
自分の思いや力で随分と遠回りした後に、
「もう、何もかも神様だけにゆだねよう。信頼しよう。」
そう決心した直後に、心の重荷が不思議と消え、心に陽が差したように明るく感じるときがあります。
「重荷を負っている人は、私のところに来なさい。」マタイによる福音書11章28節
その時々によって重荷の中身や重さは違いますが、あらゆる重荷を取り去るために十字架を通られたイエス様の愛と信仰と、その呼びかけと後押しとが、いつもあなたにあります。
重荷を下ろすことは決して簡単なことではありませんが、それでもイエス様のもとで、その重荷を少しずつでも 下ろし続けることができますようにと願います。